元日の能登半島地震で、数メートルの津波に襲われたが、80人全員が「合言葉」によって一人の犠牲者も出さなかった集落があった。
海沿いの土地に住む人々は特に、そこから学ぶべきことが多いだろう。
■数メートルの津波
能登半島の東端の珠洲市三崎町寺家(じか)の下出地区には、約40世帯、80人ほどの人々が暮らしている。
元日2024/01/01 16:10に発生した能登半島地震では、同地区の住民の証言では、地震から25分ほどで堤防を超える津波が到達したという。
その津波襲来の光景が、動画に撮影されていた。
下記のTBSニュースのYouTube動画で見られるが、2日後にドローンで上空から撮影された映像も含まれる。
津波の光景で精神的ショックを受ける方は閲覧を控えてください。
■「寺家の奇跡」
冒頭の三崎町寺家(じか)の下出地区に話を戻す。
この地区では、2011年3月11日の東日本大震災の直前から、防災士の資格を持つ奥浜勇信さん(73)らが中心となり、自主防災組織の結成や避難訓練の計画を進めていた。
先輩から『ありえもせん事を訓練をしてどうするんや』と反対されたが、『浜辺に家がある以上、避けて通られん問題や』と説得した。
如何にも「正常性バイアス」で、過去の日本でどれだけ悲惨な大震災が起きていたかなどをよく知らない人が、そのような「正常化の偏見」に陥ってしまう。
心理学用語で、生きて行くうちで、予期しない事態に対峙した際に「ありえない」「信じられない」「考えたくない」などという心理状況に陥りやすい人間の特性のこと。
このような幼児的というべき心理状態は、日本人に非常に多く見られる。
「悪いことは考えたくない」
「縁起でもない」
そして、この災害大国で、同じ土地で歴史を通じて何度も何度も悲惨な被害に遭ってしまう。
■「何かあったら集会所」
奥浜さんらは、地区内を4班に分けて、各班に誘導係や手当て係などを設定した。
そして、「何かあったら集会所」を合言葉に、各班が最短ルートで避難する毎年の訓練を10年以上続けた。
その合言葉は、繰り返し行われた避難訓練によって、地震発生とともに条件反射的に人々を避難行動に導いた。
Googleストリートビューで見ると、避難所である「下出集会場」までは、海辺から坂道を上っていった高台にある。
だが、東日本大震災の後で、集会場の真下から直線ルートで行ける階段が設けられた。
寺家下出地区の区長、出村正廣さん(76)は、こう語る。
「なんともなしにやっとった訓練が、こんなに大事なもんやと思わなんだ。その意識が生きて、声かけしたりして、誰も犠牲がなかった」
■下出地区
ある女性は、地震が起きた時にはもうダメだと思ったが、ある男性から『大津波警報、お姉さん早く逃げて』と言われ、必死に走って逃げた。
自宅は倒壊したが、前述の階段を駆け上がって集会場へと避難できた。
出村区長は当初、「津波は正直くるはずがない」という認識だったが、年に数回の避難訓練が身についていて、自然に避難できたという。
そして、住民約80人が全員無事に避難できた。
大人も子供も、イザという時に備えた避難訓練や、シミュレーションが非常に重要だということが、この地区の例でも再認識させられるケースだろう。