今日のニュース記事で、77年前に発生した昭和南海地震の際に、高知市で地震と津波を体験した92歳の男性が紹介されていたが、その体験談は壮絶なもので、今後南海トラフ巨大地震や首都直下地震という国難を迎える現代のわれわれにとっても参考になるところが多い。
■昭和南海地震
77年前と75年前の2回、終戦前後の日本を巨大地震が襲った。
1944/12/07 13:36:三重県南東沖(東南海地震)、M7.9、最大震度6
1946/12/21 04:19:和歌山県南方沖(南海地震)、M8.0、最大震度5
東南海地震は終戦の前年で、日本は既に劣勢に陥っていた時期だった。
まるで、「神国」が今のロシアのような蛮行を行ったがための天のお仕置きであるかのような、「たまたま」その時期に起きたとは思い難い大震災だった。
この記事で紹介するのは、今日のFNNプライムオンラインに掲載された、昭和南海地震を経験した男性の体験談を含むものだ。
今も高知市二葉町に住む岸田康彦さん(92)は、当時は15歳だった。
南海地震は、殆どの人々がまだ寝ていた早朝の時間帯に起きた。
「ドン」というものすごい音で目覚め、それから激しい揺れが襲った。
その後に襲ってきたのは、高さ4~6mの津波だった。
高知県高知市二葉町は、海岸から7km前後のところにある。
鏡川の大きな河口近くにあり、避難しなければ波に呑み込まれていただろう。
犠牲者・行方不明者は679人に上った。
岸田さんが外に避難して間もなく、津波が到達した。
どこからか「水が来るぞー」と声がした。
岸田さんは自宅の二葉町から北側にある昭和小学校を目指した。
今Googleストリートビューでその道を辿ってみると、ずっと平地が続き、小学校まで津波が到達するのも時間の問題だっただろう。
岸田さんが小学校の校舎に入った時に、津波は既に1階の階段の踊り場まで達していた。
■咄嗟の判断が命の分かれ道
岸田さんは、目覚めてすぐに裸足で外へ避難したことも、小学校を目指したことも、賢明な選択だったように想われる。
このような海辺に住んでいる人は特に、日頃から津波到達のシミュレーションをしておくことが大切だろう。
やるとやらないでは、大違いだ。
その点は、秋田県の明菜さんが常々ブログやnoteマガジンで書いている通りで、やはり大震災を実体験した人でないとわからないこともある。
南海地震を経験した岸田さんが今いちばん伝えたいことは「お互い助ける気持ち」だという。
大震災を体験した人だから出てくる言葉だろう。
やはり最後に大切なのは、「自分自身を守る」ことであり、また被災した人々が口々に言うように、「共助」の心だろう。
■シミュレーション
シミュレーションという意味では、激しい揺れを「体験」しておくことも重要だ。
これがあるとないとでは、実際に強震に教われた時の心構えが違ってくる。
私はこれまで家族と一緒に積極的に起震装置の体験をしてきた。
私は過去に経験した最大震度は震度5弱だった。
だが、首都直下地震が起きれば、そんなものでは済まないかもしれない。
下記のYouTube動画でも紹介しているが、
2018年10月8日には、たまたま通りがかった新宿駅西口で、起震車による大地震のシミュレーションを行っていたので、当時6歳の息子と4歳だった娘とともに、体験してみた。
大人でも子供でも、たとえ疑似的にでも強い揺れを体験しておくと、いざという時に慌てる可能性が少なくなるだろう。
私自身、いままで3回ほど起震装置の体験をして、その後に小平市で震度3~4を記録した地震が10回ほどあったが、以前よりも慌てなくなったように思う。
そういう自分の体験もあるので、シミュレーションの大切さを常々書いているのだ。
起震装置の体験は、各地の自治体にある防災センターなどでできるところがある。
下記の「日本全国の防災体験館データ」で探すことができる。
※「保護されていない通信」のため注意を。
※こういう転倒防止金具や突っ張り棒は、いくらAmazonで評価が高くても、「本番」で効果があったという経験をした人はごく僅かなのが問題だが、もちろん何もしないよりは良いだろう。