今日11月5日は「世界津波の日」で、国連でこの日が制定されてから8年経つが、大半の日本人の津波に対する防災意識はそう大きく変わっていないように思われる。
では、防災意識を高めて津波の犠牲者を減らすために最も大切なことは何かを考えてみたい。
■世界津波の日
今日11月5日の「世界津波の日」は、日本では「津波防災の日」とも呼ばれる。
これは2015年12月の国連総会本会議で「世界津波の日」を定める決議がコンセンサスにより採択されたもの。
では、この日がなぜ制定されたかというと、1854/12/24に発生した安政南海地震が起きた日にちなんでいる。
この地震による大津波が起きたのは、江戸時代後期の嘉永7年11月5日だったことから、この日が定められた。
この津波では、千人~3千人の人々が犠牲になった。
この時の津波の際の出来事が「稲むらの火」として小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英文の物語としたものが翻訳・再編されて日本でも知られることになった。
■稲むらの火
「稲むらの火」の概要は、以下の通り。
現在の和歌山県有田郡の村の高台に住む庄屋の五兵衛は、この日に大きな地震の揺れを感じた。
そして、海水が沖合へ退いていくのを見て、津波の来襲に気付いた。
祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけた。
火事だと思い、村人たちが消火のために高台に集まった。
その眼下には、大津波が押し寄せていた。
五兵衛の機転と犠牲的精神によって、村人たちはみな津波から守られた。
この主人公の五兵衛のモデルは、濱口儀兵衛(梧陵)という人物で、現実にあったことをハーンが物語化して、その後に「稲むらの日」は国語教材にもなった。
■余裕はない
あれから169年たった現在、「稲むらの火」の物語などから教訓を得て、日本で津波の犠牲者が減ったかというと、そうとは言い難い。
12年前の東日本大震災では、高さ9.3m以上の津波が襲い、内陸への遡上高は最大40m、海からの距離は4km以上に達した。
そして2万人弱の犠牲者が出たが、その多くは津波によるものだった。
あれ以来、これほど多くの津波による犠牲者が出ていないが、それは単にそれだけ大きな津波が発生していないというだけだ。
次に起きる南海トラフ巨大地震では、最悪の想定では32万人の犠牲者が出ると試算されている。
しかも、東日本大震災では地震発生から津波の到達まで数十分の余裕があったのが、南海トラフでは最短では10分程度で津波が到達する地域もあるという。
そうなると、もう揺れてから避難するかどうかの判断をしていては遅い。
■なぜ津波被害が減らないか?
2016年の世界津波の日に、私はブログでこう書いていた。
もし情報が十分に行き渡っていたとすれば、2011年3月11日に起きた大津波であれほどの犠牲者が出ることはなかったのではないか?
だが、実際は十分な情報が行きわたっていたとしても、避難しない人々が多いことが問題なのだ。
日本のような津波多発国で、なぜこんな風になってしまうのだろうか?
それは、「嫌なことはすぐに忘れよう」、「『縁起でもない』ことは考えないことにしよう」といった、あまりにもお子様的な精神状態としか言えないような日本人の発想に起因する部分が大きいのではないだろうか。
今ならば、「正常性バイアス」という用語で、より論理的に説明しただろう。
7年前にこの言葉を知らなかったわけではなく、2014年のブログ記事で既にこの用語を使っていた。
ただし、地震・津波ではなく、火山噴火に関する内容で、この用語を用いていた。
■「前例がないから」避難しないはダメ
「前例がないから」と言って安心したり、避難を怠ることも、津波の被害に遭ってしまう要因となることがある。
このあたりは、秋田県の明菜さんが常に訴えていることだ。
そして、私が明菜さんの手記をまとめて2021年に公開したYouTube動画で、訴えている。
『【東日本大震災】花は咲く:3.11の記憶~津波で家族を亡くした秋田県の明菜さんの手記』
ここで公開した明菜さんの手記の一部を、以下に示す。
「東日本大震災は、逃げる時間がありました。
なのに沢山の命が奪われた…。
それには、間違った判断と行動があったからです。
今まで、ここまで津波が来た時は無いからだ丈夫!
津波がなかなか来ないから自宅に戻る!
家族が心配だから沿岸に向かう…!
等の沢山の間違いが、多くの命を奪いました」
全体を見る場合は、下記のYouTube動画を見てください。