18年前に投稿したブログ記事を加筆訂正して再掲する。
まだスピリチュアル的なことを良く書いていた頃で、災害の発生に際して個人の「信仰」がどのような役割を果たすかを考えてみた。
※この記事は、特定の宗教団体に関係する内容ではなく、「信仰」全般に関する内容となります。
■18年前の再掲
この記事は、ちょうど18年前の2004/11/06に投稿した記事を加筆訂正したものです。
まだ霊性やスピリチュアル的なことを他のブログと分割する前の時期で、このような内容も探求三昧ブログの記事として書くことも多かった。
宗教やスピリチュアル的なものを好まない方は、時間の無駄なのでスルーしてください。
執筆した時期は、2004/10/23に発生した新潟県中越地震(M6.8、最大震度7、犠牲者68人)の2週間ほど後のことだった。
■新潟県中越地震
今夜はNHKテレビで終夜にわたって災害関係の番組を放映している。
それを今もずっと流している。
新潟県中越地震で集団で避難し、数日ぶりに我が家へ戻った人々が登場した。
無残な姿になった我が家を見て、泣き叫ぶご婦人もいた。
何度も書いているように、21世紀に入ってから、異常気象や自然災害が多発している。
神は人間に対して何を怒っているのだろうか。
自然をないがしろにし、自分たちの利益しか考えない、あまりにも身勝手な人間の振る舞いに対して、神は怒っているのだろうか。
■信仰の有無
自然災害というのは人ごとではない。
台風、地震、火山爆発…日本では頻繁に起きるものだ。
「明日は我が身」かもしれない。だから、覚悟をしていなければならない。
災害が起きたときなどのように、人生において危機的状況に陥ったときに、信仰をもつ人とそうでない人の違いが出てくる。
もっとも、ここでいう「信仰」とは、特定の宗教団体に属しているかどうかに依るものではない。
特定の「神仏」と繋がりがあり、その人がその存在に依拠しているかどうか、だ。
正しい信仰をもつ者を、神仏は見捨てない。
そういう人が、たとえ災害で逝去したとしても、それは何らかの意味があるのだろう。
今生の終わりが、その人(魂)の全ての終わりではない。
そう思っているからこそ、こういうことが言える。
■生の終わりによる学び?
どんなに深い信仰をもつ人でも、生の終わりを経験しなければ学びが得られない場合は、避けられなくなる。
だが、それは決してすべての終わりではなく、人間はまたこの世に生まれ変わってくるものだということがわかっていれば、恐れることは何もない。
たとえ災害で家を失ったとしても、一家全員が同じ信仰をもっていれば、一致団結して困難に立ち向かって行けるもの(力)を神仏は与えてくれる。
人間という存在がこの世に生を受けたとき、そこには必ずカルマ(業、サンスクリット語で「行為」)というものがある。
カルマのない人間など、この世には存在しない。
プラスのカルマ、マイナスのカルマ。
たとえ聖者と呼ばれる人物であっても同様だ。
ある土地に生まれ、ある土地に住んだならば、そこにはその土地のカルマがある。
また、ある国に生まれ、ある国に住んだならば、そこにはその国のカルマ、民族のカルマがある。
そのような様々なカルマが絡み合った中で、人間は生きている。
■自然災害発生の必然性
自然災害などは、個人のカルマで起きるものではあり得ないだろう。
この世に「偶然」で起きることなど何もないと、聖者たちは口をそろえて言う。
自然災害も、偶然によって起きたものではないことになる。
このような状況のもとで、心の支えになってくれるのが信仰というものだ。
ここでいう信仰とは、ある特定の宗教団体に所属しているということを必ずしも意味しない。
ある神がいて、そこにつながりのある人がいれば、そこに信仰は生まれる。
いままでの人生の経験から言えることは、「信仰は人間を強くしてくれる」ということだ。
■私の「信仰」
私自身は、特定の宗教団体に属していないが、信仰が無いとはいえない。
これまでの守護する存在などによる指示(主にダウジングによる)によって、あるいはシャーマン的な存在の指示によって、神棚を建てたりして家で祀ることを始めた。
三社神棚には、天照大神、諏訪大明神(諏訪大社)、弁才天(江島神社)。
もう一つの神棚には、日本武尊、弟橘媛命(走水神社)。
他に、七福神、ナザレのイエス、聖母マリアの像など。
そして仏壇には、釈尊像を祀っている。
結果的に、それらの神仏を「信仰している」ことになるだろう。
すべて、ご縁があるからこそ、祀るようにということなのだろうが。
いうまでもなく、その頂点に存在するのは、宇宙創造主だ。
■生まれ変わり
生まれ変わりという長いタイムスパンで見た場合、「良いこと」や「悪いこと」というのは、相対的な意味しかもたない。
時間がたってみれば、「悪いこと」が「良いこと」に変わったり、また逆だったりもする。
このように、善悪などというものも絶対的な指針ではあり得ない。
そこまでの思考にたどり着き、受け入れることができるようになれば、人間というものは強くなる。
要するに、すべては「学習」であり、カルマだ、カルマだといっても、それは「罪と罰」ではない。
原因と結果の法則の中で、人は何かを学び、魂が成長する。
自然災害というものも、そこからなにかを学ぶために神が与えたものではないか。
その「何か」が何であるかは、人それぞれで違うだろう。
■災害ボランティア
ところで、今回の新潟県中越地震で、ボランティア活動をしている人々には頭が下がる思いだ。
先ほどもテレビで、小遣いを使って関東地方からバスでやってきた女子高生とか、仕事を休んで遠くから来ている男性などがインタビューを受けていた。
「ギヴ・アンド・テイク」という言葉がある。
それは「テイク・アンド・テイク」の人々からは進化しているだろうが、人間が究極的に目指すところは「ギヴ・アンド・ギヴ」だろう。
人間が「無条件の愛」を与えることができるようになったとき、その人はめでたく地球からの「卒業」に近くなるのではないか。
利益や結果を求めない行い。
それこそが、人間を殻の中から抜け出させるキッカケになるのではないか。
(再掲部分ここまで)
■地球の卒業?
ある人がどんなに高尚な教えを説いても、その人自身がまだ地球上で生きているということは、まだ「地球の卒業」に至っていないことになる。
もちろん私も含めて、五十歩百歩なのだ。
それでも、自分よりも先を行く人々の教えから学べることは多い。
今生で「地球の卒業」を果たせるかどうかわからないが(恐らく難しい)、自分に与えられた役割を果たすことが、カルマの解消にも魂の学習にもなるのだろうと思えば、人生で嫌だと思うことなど何もなくなる。