あと1ヵ月半で東日本大震災から10年になるが、大津波に関して地震工学者の福和伸夫氏が考えさせられることを書いているので、「津波から命が助かる」ために何が重要かを考えてみたい。
■温故知新で歴史に学ぶ
建築学者、地震工学者であり、名古屋大学減災連携研究センター、センター長・教授の福和伸夫氏が、今日のYahoo!JAPANニュースで一文を認(したた)めている。
この方は地震に関して示唆に富んだことを書かれることが多いので、常に目を通す。
今日も、タイトルが「東日本大震災から10年、温故知新で歴史に学ぶ」とあるからにはスルーできない。
■「科学」を信用しすぎない
大地震など大災害については、森羅万象のうちで、現在の自然科学でわかっていることは、ごく一部だという認識が必要だ。
「想定外」のことが、いつでも起こり得るのが現実世界だ。
これまでの自然科学の理論で、将来的に絶対に覆せないものはごく一部に過ぎない。
それなのに、自然科学をあたかも絶対的であるかのように考える科学者が少なくないように思える。
また、一般の人々がもつ誤った風説も問題だ。
福和氏は、こう書いている。
「この地震が起きるまでは、一般には、日本ではM9クラスの巨大地震は起きないと思われていました」
もっと遡れば、以前は「西日本では大きな地震は起きない」と多くの関西人が考えていたこと。
それが、阪神・淡路大震災の被害を拡大した一因になっているように思えてくる。
■温故知新
では、科学ではわかっていないことを学ぶには、どうすれば良いか。
一つには、福和氏が書いているように、「歴史に学ぶ」ことが重要だろう。
「温故知新」とは、辞書によると「昔の事をたずね求め(=温)て、そこから新しい知識・見解を導くこと」とある。
昭和三陸地震津波で多くの犠牲者を出した岩手県重茂半島姉吉地区では、海抜60mの高台に、石碑の碑文が建っている。
「大津浪記念碑」
1933年3月3日の昭和三陸地震による津波の後で、岩手県宮古市重茂姉吉地区に建てられた。
重茂半島の魹ヶ崎の南西約2kmの所にある姉吉漁港から、急坂を800m程上がった海抜約60mの山腹にある。
■大津浪記念碑
その碑文には、こうある。
大津浪記念碑
高き住居は
児孫の和楽
想へ惨禍の
大津浪
此処より下に
家を建てるな
明治廿九年にも
昭和八年も津
浪は此処まで来て
部落は全滅し生
存者僅かに前は二人
後に四人のみ幾歳
經るとも要心あれ
大津浪記念碑
撮影:T.KISHIMOTO
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■繰り返された悲劇
姉吉地区の村では、繰り返し津波の被害に遭って、そのたびに村は壊滅状態になった。
1896年6月15日の明治三陸地震(Mw8.5、犠牲者・行方不明者約22000人)では、村の生存者は2人だけ。
1933年3月3日の昭和三陸地震(Mw8.4、犠牲者・行方不明者約3千人))による津波では、生存者は4人だけだった。
そのため、「津波は、ここまで来る。ここから下には、家を作ってはならない」と警告の意を含めて、この碑文が建てられた。
10年前の東日本大震災の津波では、人々は祖先の教えを守った。
その石碑から上に避難したため、一人の犠牲者も出さなかった。
その津波碑より下の姉吉漁港を、Googleマップの写真で見てみる。
たしかに、民家らしき建物は見られない。
■どうすれば犠牲者は減るか
津波被害を減じるには、短期的には早期非難を促進することになるが、長期的には高台移転や慈善復興計画などの策定が必要になると、福和氏は書いている。
「便利」を取るか「生存」を取るか?
福和氏によると、南海トラフ地震の予想被災地などでの事前復興計画の策定状況は、芳しくないのが現状だという。
港湾関係者や漁業関係者も、昔に比べれば車があるから海岸から離れた場所に居住することも可能だという。
従来の考えを捨てて、犠牲者を出さないように根本的な考え方の見直しが必要になるだろう。
われわれが東日本大震災の津波から何も学ばなければ、何万という数の亡くなった方々が浮かばれないではないか。
■今日の前兆現象
今日も昼から頭痛があり、コーヒーと頭痛薬を飲んだが収まらず、しばらくして再度コーヒーを飲んだ。
東京は「警戒」→「注意」→「やや注意」と、かなり長く続く。
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